6月11日(土) ニューヨーク(ブルックリン、ダウンタウン) AM0:00、部屋に戻って寝ようとすると、またしてもギンギンに冷えていた。私が空調機のスイッチを切って寝ていると、メキシコ人男性が入ってきて、暑い暑いと言いながら、スイッチを入れている。後から入ってきたエジプト人も「暑い暑い」と言っている。私は困ったなと思いながら、持参のモモシキとメリヤスのシャツを着込んで寝た。 しかし、温度が低いのと空調の音で寝付かれない。「廊下に出てソファーで寝るようかな」とも考えたが、待てよ、その前に一つやることがある。「空調の温度設定を上げてみよう」と思いついた。「空調を切るとトラブルになりかねないが、温度を上げるぐらいなら問題にはなるまい」と考えたのだ。ベッドから立ち上がり、人に気づかれないように空調機のふたを開けて、つまみを思い切り”暖”の方へ回した。これでだめなら廊下へ出ようと思いながら、再びベッドに潜り込む。 AM3:00、目を覚ましたが、自分が着込んで寝ているために部屋の温度がどの位になっているのか分からない。皆静かに寝てはいる。私はこの際起きてトイレに行くことに。部屋に戻って感じたのだが、空調が明らかに冷房から暖房に変わっていた。これはやり過ぎだと思い、空調機の設定を心持ち冷房の方向に戻して寝た。おかげで私は何とか安眠できた。 AM6:00、起床して洗面所に行くと、髪の毛が鶏冠状態のお兄ちゃんが「夕べは暑くて困ったよ。キチガイ沙汰だ」とこぼしていた。「犯人は俺だ」とも言えず、「私は寒いのが苦手なんだよ」と言ってごまかした。部屋に戻ってさらに冷房に切り替えてあげた。メキシコ人も「変だな」と思ったのか空調機をのぞき込んでいた。今晩はどうなることやら! AM7:30、朝食。今朝は追加料金2.50ドルを払って、ベーグルにハムエッグを挟んでもらい、果物もリンゴとバナナの両方を注文した。ベーグルも暖かくなっていて、美味しさを感じた。 食事中、同じテーブルの色黒の女性に声をかけてみた。彼女は愛想良く応じてくれ、しばしの談話。「インドのマドラス出身の女医さん。半年前から家族(建築家の夫と11歳の息子)でニューヨークのロングアイランドに住んでいる。その前はドバイに4年間居た。ドバイにはお金はあるが教育のレベルが低い。 今回は単身でこのホステルに泊まっているが、近くの病院で研修を受ける為である。専門は産婦人科で、15人ほどで研修を受けている。医者は勉強をし続けなければなりません」と話してくれた。横に小さな本が開かれていたので訪ねると、「キリスト教の本です。インドでは圧倒的にヒンズー教徒が多いが、私たち夫婦はクリスチャンです。一神教に共鳴しています」と言うことであった。そういえばヒンズー教は多神教だ。 AM9:30、本日のツアーに参加する準備のために、部屋へ戻るとメキシコ人がシャワーを浴びて戻ってきた。夕べの空調機の件はご存じのようで、「民主主義は、多数決で決めるものだ。6人中5人が冷やしたいと言っているのだからそうすべきではないか?」と言ってきた。私はなにも弁解せずに「その通りだ。申し訳なかった」と謝った。それから打ち解けて雑談になったのだが、彼はユダヤ系のメキシコ人で、弁護士をしているという。今回も仕事で来ているようで、いつもきちんとアイロンのかかったスーツとネクタイで出かけていく。ホステルには若者が多いが、中には医者や弁護士も居ると言うことだ。
Jerry AM10:00、ツアーの参加者がロビーに集まってきた。今日のガイドに10ドルを払う。ガイドの名前はジェリー(Jerry)、74歳、元科学の先生。ロシア系で、ウクライナからの移民である。声の通る元気なじいさんである。
Brooklyn AM10:30、ホステルを出発。まず、最寄りの駅から地下鉄に乗ってブルックリン(Brooklyn)へ。途中で鈍行から急行に乗り換え、Borough
Hall駅で降りた(AM11:05)。ここはマンハッタン島の隣の島で、橋で繋がっている。駅から歩いていると、閑静な住宅地が広がっていた。
Lunch time 途中のスーパーでランチ用の食料を、銘々で調達する。私はクロワッサンとコーヒー。見晴らしのよい海岸のベンチで、ランチを頬張る。
Brooklyn
Bridge ここは、マンハッタン(Manhattan)の高層ビル、スタティン島、自由の女神像、ブルックリン橋、合衆国本島のニュー・ジャージー州が、一度に見渡せる絶景の地である。今日は生憎の天気で朝から雨模様の為、遠景は霧の中に霞んでいる。天気が良ければ、「オーストラリアのシドニーに匹敵する、素晴らしい港だろう」と晴れた時の景色を想像した。栄える港はそれなりの理由(天然の良港、地の利)があると思う。 昼食後、ブルックリン橋を渡った。この橋はロウアー・マンハッタン(マンハッタンは北側をアッパー、南側をロウアー、中間をミドルと呼ぶ)とブルックリン島を結んでいる。1883年に完成したこの橋は、14年の歳月が費やされた。ワイヤーが描く幾何学的な美しさから「スティールハープ」とも呼ばれる。下段は自動車専用道路、上段は歩道になっていて、30〜40分程で歩いて渡ることができる。 我々は小雨が降り続ける中、ブルックリン橋を歩いて、再びマンハッタン島に戻ってきた。マンハッタンとは、インディアンの言葉である。オランダ人は、この島をニュー・アムステルダムと言い、イギリス人は、ニューヨークと銘々したのだと言う。 ここからの見学ツアーは、高層ビルディングのオンパレード。ガイドのジェリーが何度「アップ・アンド・アップ・アンド・アップ・アンド・アップ」と声を発したことか。その度に我々は首が痛くなるほど上を見上げる。ある建物は芸術的であり、またある建物は高さを競い、ある建物は周囲の建物との均一性を主張している。ガイドはその都度ニューヨークの素晴らしい景観を語る。 「3000年前、エジプトではピラミッドやスフィンクスが造られたが、現代におけるニューヨークの高層建築は、それに匹敵するであろう。こんな景観は世界中見渡しても、ここでしか見られない」と。私は「そこまで言うか。ピラミッドは3000年の風雪に耐えてきたが、ニューヨークの摩天楼は、そんなに持たないだろうに」等と思いながら聞いていた。 ブルックリン橋を渡り終えるとすぐに、美しいニューヨーク市庁舎と市庁舎公園(City Hall
Park)がある。少し歩くと、ブロードウェイに出る。ブロードウェイはマンハッタンを、ほぼ南北に貫通している大通りで約20kmある。我々がイメージしているミュージカル劇場が集まるエリアは、タイムズ・スクエアを中心としたその一部であり、シアター・ディストリクトとも呼ばれている。従って市庁舎近くのブロードウェイにはミュージカルの雰囲気はない。
City Hall
City Hall Park 9.11で破壊された世界貿易センター(WTC)の跡地に来ると、建設の土音がこだましており、早くも見上げるような高さにまでなっている。近隣の住民は、うるさい音と土ぼこりで窓を開けられないそうだ。私の感想は「意外と狭いところに建っていたのだな」と言うことである。ニューヨークの高層ビルは、どこもその様ではあるのだが。隣接した壁には殉職者の顔と名前が刻まれていた。「別の所には、指輪をはめた女性の手が保存されているのだが、ビルの中にいた人なのか、ぶつかってきた飛行機の中にいた人なのか解らない」と言う。
World Trade Center New York
Stock Exchange ウォール街(Wall Street)のニューヨーク証券取引所(New York
Stock Exchange)は、狭い通りに面しており、これも意外であった。ウォールの名前の由来が、昔、オランダ人が、外敵から守るために造った「壁」に由来していることも面白い。過去の遺物の中に世界経済の最先端が存在している訳だ。 Whitehall
Ferry Terminal PM3:30、この後、自由の女神を見に行く。マンハッタン最南部に位置する地下鉄のSouth Ferry駅から直結した乗り場、Whitehall
Ferry Terminalから乗船。我々が利用した船は、マンハッタン島と南部にあるスタッテン島を結ぶ住民のための無料フェリー(The Staten
Island Ferry)。片道20分ほどの乗船中に、リバティ島(Liberty
Island)に建つ、自由の女神を遠望できるが、有料のフェリーで行けばもっと近くまで行ける。
Ferry 私達が乗ったフェリーは、一度に1000人も乗れようかと思うほど大きな船で、朝夕は通勤客で賑わっていると想像される。と言うのも、英会話サークルで勉強中の映画「ワーキング・ガール」の中に、学歴が無いためにキャリア・アップできず、もがいている女性主人公が、この船でマンハッタンへ通勤しているシーンが描かれていたからである。 Statue of
Liberty 肝心の「自由の女神像:Statue of
Liberty」は、小雨交じりの遠景の中に霞んでいたが、それでも十分満足のできる一時であった。フェリーの中では、サンフランシスコから来ている例の英語教師(イタリア系で名前をバージニアと言う)が私を捕まえて、発音のレッスン。「th」の発音を何度も矯正された。自分ではかなり意識して発音しているのだが、ネイティブには気になるらしい。そう言えば、ブラジル人女性が、「五番街で安い記念品を買った」と言うときに、「チープ」ではなく「チップ」としか聞こえず、話の筋を理解できずに困ったことがあった。私にも、それと似たような癖が有るのだろうと思う。 Little
Italy PM4:30、マンハッタンに戻り、Whitehall
St駅から15分ほど地下鉄に乗ってCanal
St駅で降りた。外へ出るとすぐに、チャイナタウン(China
Town)の活気のある雰囲気に包まれる。どこの国へ行っても存在する中華街ではあるが、ここは一段と広く人も多い。しばらく歩くとリトル・イタリー(Little
Italy)に来る。ここはイタリア人が多く住む町で、雰囲気もがらりと変わる。まさにマンハッタンが「人種のるつぼ」で有ることを感じさせる所である。 UNIQLO そこに隣接したソーホー(Soho)には、今日本でも日の出の勢いの、衣料品店ユニクロ(UNIQLO)があった。地元の四街道店とは比べようもないほど大きく、そして洗練された店である。価格は同じぐらいの設定に思えた。 PM6:45、地下鉄プリンス通り駅(Prince
St)から一駅だけ乗って「8St-NYU」駅に来た。ここにはリトル・インディアが有り、ガイドさん馴染みのインド料理店で夕食となった。この時点で、今朝25人からスタートしたツアー客は、それぞれの理由で半分の12人に減少していた。残った我々は、ここで2時間ほどの食事タイムに入る。量はたっぷり、お味もまずまずのサービス満点のお店でした。別に頼んだコーラを含めて、15ドルはリーズナブル。 ガイドのジェリーは、全く疲れた様子がない。それどころか、料理が出て来るや、誰よりも早くパクパク食べている。私はとても食べきれなかったが、彼は綺麗に平らげていた。恐るべき74歳である。私の疲労度は、まだ時差も残っているのか、ピークに達していた。食事中は半分居眠りしながら食べている状態であった。私もこの辺でリタイアしようかなとも考えたが、レストランから出る頃には大分元気を取り戻していたので続行することに。 私と相席したのは、オーストラリアのブリスベン、ニュージーランドのオークランド、それと南アフリカから来た青年たちである。3人ともイギリスと親密な関係にある国(Commonwealth)から来て、流暢な英語で語り合っている。私はその内容を理解するのに必死であった。 PM9:00、レストランを出て「8St-NYU」駅まで戻り地下鉄で「23
St」駅へ。ここでフラットアイアンビル(Flatiron
Building)とマディソン・スクエア公園(Madison
Square Park)を見る。フラットアイアンビルの高さは90m、北側の狭い方の角は2m弱しか幅がないと言う特異な形である。いかにも狭い土地の有効活用の典型である。 PM10:00、「23
St」駅からタイムズ・スクエア駅(Times
Square)まで地下鉄で。ガイドにタイムズ・スクエアの名前の由来を聞くと「ビルのてっぺんに年を表す時計があり、その下の東芝の文字が四角で囲まれているからである」と言う。しかし「地球の歩き方」を見ると、「かつて新聞社のニューヨークタイムズ本社がここにあったことから名前が付いた」と書いてある。どちらが本当なのだろう?後日、別のガイドに確認すると、後者が正しいようだ。 Times
Square Rockefeller
Center 最後にタイムズ・スクエアに戻ってマリオット・マルキース・ホテル(Marriott
Marquis)の48階まで高速エレベーターで上った。ガラス張りのエレベーターから外が見えるが、下を覗くと気持ちが良いものではない。下りのエレベ−ターですぐに下りてきた。 PM11:55、タイムズ・スクエア駅でガイドと別れ、ホステルに戻ったのはAM0:20、過酷な一日であった。74歳のガイドは全く疲れを感じてないようであった。小生は、ベッドにゴロン。 6月12日(日) ニューヨーク(ハーレム) 昨日の疲れもあり、今日は一日ゆっくりしようと思いながら、朝食後、念のためロビーに出て、今日のツアーを確認すると、ハーレム(Harlem)の見学があるという。午前中で終わるようだし、参加することに。 AM8:40、ユース・ホステルの前でガイドから本日の説明がされてから出発。ブラジル人女性が今日も参加している。よく一緒になるので顔見知りになって挨拶をするようになった。彼女は見る度に、TPOに応じて衣服を替えて来る。聞くと「ニューヨークに11日間滞在し、スーツケースは2個だ」と言う。私の1週間の滞在と、ほとんどの部分で重なっていた。 Hostelling International—New York City (2)
今日のツアーもホステルを出た後、まず地下鉄に乗って行くのかと思ったら、駅とは反対の方向に歩き始めた。そう言えば我々が滞在しているホステルは、コロンビア大学にも近いが、ハーレムにも近い所にある。マンハッタンのエリア区分で言うと、セントラル・パークを中心に、西側にホステルのある「アッパー・ウエスト・サイド」、北側に「ハーレム」北西にコロンビア大学のある「モーニング・サイドハイツ」が位置している。今日のツアーで見学した主な物を列挙してみよう。 1、 ホステルのすぐ隣に幼稚園がある。ここでも、かつては人種差別があったと言う。少し歩くと、壮麗な建造物、セント・ジョン・デバイン大聖堂(St. John
the Divine)がある。日本語では、聖ヨハネ大聖堂とも言う。建築を始めてから100年以上経っているが未完成で、完成すると世界最大のゴシック様式の建物になるのだとか。 St. John
the Divine The Peace Fountain 2、 大聖堂の隣にある「子供の彫像の庭(Children’s Sculpture Garden)」には、The Peace Fountainが建っている。 3、 トムズ レストラン(Tom's
Restaurant)は、コロンビア大学の学生や教職員がよく利用する簡易食堂で、オバマ大統領がコロンビア大学の学生であった時、ここをよく利用していたと言う。
4、 コロンビア大学に隣接して、バーナード女子大(Barnard College)がある。ここは、当初、コロンビア大学の女子部であったが、その後リベラルアーツの女子大として独立。アメリカ東部の伝統的な有名私立女子大学7校(Seven Sisters)の1つである。
Barnard
College 5、 コロンビア大学はハーバード大学、イェール大学、プリンストン大学、ブラウン大学、コーネル大学、ダートマス大学、ペンシルバニア大学の8大学からなるIBリーグの一つ。ここの卒業生はIBリーガーと呼ばれ、米国の主流派(エスタブリッシュメント)を構成している。ここの授業料は年間5万ドルで、公立大学の10倍だそうだ。綺麗に整備された敷地に、時折映像で見かける大きな図書館(The Library of Columbia
University)があり、カメラに収める。日曜日とあってか学生の姿は見かけない。
6、 構内を通り抜けると、モーニングサイド・パーク(Morningside Park)に出る。森林浴が楽しめる一角である。しかしここの道端のあちこちに、使用済みの注射器やマリワナの袋が捨てられている。この国の陰の部分を見たような気分である。ここは切り立った斜面が、東側に下っていて、不動産の建設が困難と言う事で、19世紀末に公園となった。東側斜面に出来ており、朝の光が降り注ぐことが、名前の由来になっている。
7、 ブラウンストーン(Brownstone)の家が建っている所に来た。ブラウンストーンとは、赤褐色砂岩を正面に使用した住居を言い、ニューヨークでは富裕・魅力の象徴である。ここは諸外国から移民してきた人々が、一時期住んでいた所である。通りを歩いていると子供たちが家の中に入っていく所に出くわした。声をかけると後ろを振り返り、外に出てきてカメラのポーズを取ってくれた。
8、 ミントンズ・プレイハウス(Minton's Playhouse)は1938年、テナーサックス奏者のヘンリー・ミントンによって創設された。 ここからモダンジャズやビーバップ(bebop)のリズムが誕生した。
9、 アポロ・シアター(Apollo Theater)は、ポピュラー音楽においてアメリカ合衆国で最も著名なクラブの一つであり、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンやアーティスト専用とも言えるほど関わりの深いクラブである。1934年に黒人のエンターテイナーを雇うニューヨークで唯一の劇場としてオープンし、黒人文化の象徴的存在となった。スティーヴィー・ワンダー、サラ・ヴォーン等、多くのスターを輩出してきた。
数年前まではこのハーレム地区には、ギャングが横行していたが、今では地区の再開発と、住宅の改装が進んで明るい町に変わりつつある。至る所で改築、修繕が行われていた。危険なところと言うイメージがあり、確かにその名残を感じる所もあるが、明るい時にガイドと一緒に歩く分には、そのような不安はない。
あちこちに幾つもの教会が建っている。そのうちの一つに、オバマ反対の看板を見た。「不正によって大統領になった」と書かれていた。中国では考えられない言論の自由だ。スターバックス・コーヒー店が町の辻々に見える。ハーレムの光と陰を感じたツアーでした。 AM11:30、教会の前でガイドから、ゴスペル・サービスに参加する場合の注意があった後、解散となった。ゴスペル・サービスに参加する人、ホステルに帰る人。私はホステルに帰るつもりで、外でガイドと話していると、教会の中に入って行ったブラジル人女性がすぐに出てきて「私も帰ります」と言う。ゴスペルに参加することを楽しみにしていたのに、どうしたのか聞くと「中が汚くて雰囲気が良くない」と言う。確かに数日前に来た教会とは別の所であった。我々は地下鉄に乗ってホステルへ戻った。 道すがら話して分かったことは、彼女はブラジルのサンパウロから来ており、普段はIBMの会社でパブリック・リレーション(Public Relation)の仕事をしている。離婚して独身の理知的な雰囲気を持った女性だ。先祖はイタリアのシシリー島出身で名前をタイス・フオコ(Tais Fuoco)と言う。Fuocoとは、英語でFire(火)という意味だそうだ。 PM0:30、酢豚と白米のテイクアウトで昼食、6ドル。 PM2:00、洗濯機と乾燥機で衣類のクリーニング、3.50ドル。私が洗濯室に入っていくと、相部屋のフランス人青年が洗濯物を畳んでいた。その畳み方が丁寧で、いかにも衣服を愛おしむかのような仕草であった。私が「随分大事にしているんだね」と言うと、「衣服は、時によっては命より大事である」と思い入れを語ってくれた。 PM4:30、ベッドで仮眠。 PM6:30、シャワー後、昼食の残り物で夕食。 PM7:30、いつもの談話室で日記を書いていると、そこへサンフランシスコの英語教師(Virginia Arnone)が来て、しばしの懇談。 PM11:40、就寝 6月13日(月) ニューヨーク(マンハッタン) AM5:00、起床。日記を書く。 AM7:30、朝食。トーストしたクリームチーズ・サンドのベーグル、大きくておいしいリンゴ、ホット・チョコレート。 AM8:30、仮眠。 AM9:30、今日は最後の1日なので、気になっているところを一人で見て回ることに。マンハッタンの地図があれば一人で歩く自信が出来ている。 まず地下鉄へ。車内は笑いたくなる程、多種多様な人種。肌の色が黒・白・黄色、体型はデブ、のっぽ、痩せ、髪の毛はストレートヘア、縮れ毛、瞳の色も青、黒、茶と。たぶん99%の人がどこからか、移民して来ているのだ。単一民族でも難しいのに、こんな国をまとめていくのは大変だろう。アメリカを世界標準とするなら、日本は確かに例外的な国だ。 AM10:30、エンパイア・ステート・ビルディング(The Empire State Building)へ。「確か、この辺に有るはずだな」と思いながら、そこら中に立っている警官の一人に聞くと、笑いながら「ここだよ」と言うではないか。通りから見えたのは、コンビニエンス・ストアの様な店内の様子だけで、高層階はひさしに隠れて見えなかったのである。普通の人は、此処まで来たら最上階まであがってパノラマを楽しむのであろうが、その気がない私は、その入り口を探す気にもならなかった。従って、私のエンパイア・ステート・ビルディングは天井の低いコンビニエンス・ストアと同じだ。「盲人と象の鼻」に例えられるかもしれない。
The
Empire State Building AM11:00、国連ビルに行く途中、マンハッタン東側の川(East River)沿いに出た。年輩の婦人がベンチに腰掛けていた、話しかけると「夫の定期検診がニューヨーク・シティ病院で行われているので、此処で待っています。数年前に腎臓の移植手術をしたのです」と言う。川沿いに大きな病院が建っていた。
AM11:30、国際連合ビル(United Nations)に到着。高層のビルは修復中で、立ち入れない。その横にある低層の建物には入れたので、覗いてみた。1階は展示場で、各国、各地の訴えたいことが展示されている。環境問題、食糧問題等である。地下1階は、みやげ店になっており、どこにでもある様なものが売られていた。
PM1:00、カーネギー・ホール(Carnegie Hall)に到着。周りはここも改装中。中には入れないので、カーネギー・ホールはこれで終わり。エンパイア・ステート・ビルディングにしろ、国連ビルにしろ、カーネギー・ホールにしろ、私が初めて耳にしたのは、中学生の頃だと思うから、それから半世紀が経過している。当時は輝いていたのだろうが、今では輝きを失って、修理を要するようになっている。10年一昔と言うのであるから、50年もすれば世の中はすっかり変わっている。変わってないのは最初に持ったイメージだけ。これなら見ない方が良かったと思わないでもなかった。
PM1:50、セントラル・パークを通り抜けて、メトロポリタン美術館(The metropolitan Museum of Art)に到着したが今日は月曜日で閉館!せっかく楽しみにしていたのに、がっかり。
再びセントラル・パークのジャッキー・オナシス貯水池や、テニスコートを通って、公園の反対側(西側)に出る。この公園には何度も来たので、すっかり馴染んできたが、私にとってはニューヨークで一番のお気に入りの所かも知れない。
PM3:00、ホステルに帰着。今朝9時半に出発してから、5時間半。そのほとんどの時間を歩いたことになる。結局修理や閉館で期待を裏切られてしまい、マンハッタンを歩くだけの一日になってしまった。さすがに疲れたが、お陰で地理には詳しくなった。早めの夕食は海老丼のテイクアウト。7ドル也。 PM4:00、食事後、ロビーに行ってみると、「札幌から来て2ヶ月ほどアメリカを歩いている」と言う70歳の熟年男性に声をかけられた。「路面電車が走っている情報が入ればどこへでも行く」と言う、路面電車の追っかけをしている人であった。国鉄や私鉄の電車ではなく、路面電車でなければ面白くないそうだ。 PM4:40、日記を書く。 PM6:00、シャワーを浴びてベッドへ。仮眠のつもりが、起床は翌日のAM2:30であった。 6月14日(火) ニューヨーク(グリニッジ・ヴィリッジ)〜ニュー・アーク AM2:30、起床。夕べ早くから寝てしまったので、目が覚めた。しばらく日記を書くことにする。 AM5:30、ベッドに戻ってしばらく休む。「睡眠薬は使用しないのですか」と聞かれたことがあるが、私のように寝たいときに寝、起きたいときに起きるようにしていると、睡眠薬は不要である。 AM7:00、朝食。いつもの定食だが、ベーグルパンがすっかり馴染んできた。日本に帰ったらまた食べたくなるかも知れない。そして出されるリンゴが美味しい。私はキッチンで水洗いして、丸ごとかじっているが、大きくて芯が小さいので食べがいがある。 AM8:00、チェックアウトの準備をする。パッケージングしてホステルのロッカーに入れる。預かり料は5ドル也。 マンハッタンの道路は概ね碁盤の目のようになっているので、一週間も滞在すると大体の地理が分かってくる。つまり、南北に走る大通りがアヴェニュー(Avenue)で、東西に走る通りがストリート(Street)。アヴェニューには固有の名前が付けられており、ストリートには番号が付けられている。その番号は南(ダウンタウン)から北(アッパータウン)へ行くにつれて大きくなっている。従って、アヴェニューの名とストリートの番号を聞くと、どの辺りか見当がつけられる。 地下鉄の路線は番号またはアルファベットで表示され、駅名はストリートの番号(必要に応じてアヴェニュー名との併記)で表示されている。私の宿泊先であるインターナショナル・ホステルの最寄り駅は、1番線の103St.であった。
AM10:00、ニューヨーク最後の半日ツアーにでかける。10ドル也。私の他は、例のブラジル人女性と、日本人婦人。全部で3人のツアーだ。参加者には良いがガイドにとっては商売にならないだろう。 グリニッジ・ヴィリッジ地区(Greenwich Village)を、随分あちこち歩き回ったが、写真を撮るのが精一杯。見学した主な所は次の通り。 1、 トーマス・ペイン(Thomas Paine 1739〜1809)は、アメリカ独立戦争(1776年)の折、政治パンフレット「コモン・センス(Common Sense):常識」を執筆した。その中で彼は「植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common Sense」であると説いた。トーマス・ペインはグリニッジヴィレッジの写真の家で亡くなった。
2、 三角形をしたジョージアン様式のノーザン・ディスペンサリー(Northern Dispensary)は、1831年にコレラの蔓延と闘うために建設され、1989年に閉鎖されるまではNY最古の公共医療機関であった。作家のエドガー・アラン・ポーは、1937年に風邪にかかり、ここで無料で治療してもらったと言う。
3、 1831年に創立されたニューヨーク大学(NYU)は、私立の総合大学でマンハッタンのグリニッチ・ビレッジに位置し、専攻科目が豊富で、人気のある大学である。今現在 120カ国以上からの留学生を含め、約2万5千人の学生がNYUで学んでいる。NYUは立地条件がよく、大学周辺には多くのレストランやお店があるので、観光 やショッピングにも最適である。ニューヨーク市立大学(City University of New York; CUNY)、ニューヨーク州立大学(State University of New York; SUNY )と言う公立大学もあるので紛らわしい。
4、 ラガーディア(Fiorello H. LaGuardia:1882〜1947年)ニューヨーク市長は身長5フィート(152cm)と、背の低い人であったが、歴代市長の中でも名市長として、ニューヨークの「ラガーディア空港」に、その名を留めている。
5、 ワシントン・スクエア・パーク(Washington Square Park)は、市民の憩いの場、待ち合わせ場所、文化活動の場として親しまれている。ニューヨーク大学の中庭的な位置づけにもなっており、ワシントン・アーチ(Washington Arch)と共にこの地域のランドマークである。
Washington
Square Park
Washington
Arch 6、 トライアングル縫製工場(Triangle Shirtwaist Factory)の火事は、1911年3月25日に発生して、146人の死亡者と71人の負傷者を出した。マネージャーが出口へのドアーをロックしていた為に、炎にまかれたり、8階、9階、10階の窓から飛び降りたりして死んだのだが、その多くがユダヤ人やイタリア人移民の、若い女性達であった。
7、アブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln:1809〜65年)は1860年、北東部で初めて大きな政治集会に出てスピーチをした。その会場がクーパー・ユニオン(Cooper Union)であった。それはリンカーンが大統領への道を開く重要な演説で、奴隷制に関する持論を展開したものであった。
PM2:00、半日ツアーの現地解散後、一人でホステルに戻り、荷物をロッカーから取り出して今晩の宿泊先へ向かう。 まず、地下鉄でペンシルバニア駅(NY Penn Station)へ。これで一週間使い放題のメトロカードも使命を終えた。随分有効に利用させてもらった。此処からはニュー・ジャージー州(New Jersey)へ行くのでメトロカードは使えない。 PM3:07、ペンシルバニア駅で、乗り換えの方法を聞くこと3人。3人目の人に言われるまま、切符も買わずに列車に飛び乗った。車内で買えばよいと言われたのだ。まもなく車内検札が来て切符を購入。11.75ドル也。 私の隣の席にはハンサムな背年が座っていた。声をかけると「映画俳優だ」と言う。「将来ビッグネームになった時のために、サインをして下さい」と言うと喜んで「Colin AArons」とサインしてくれた。彼も私と同じ空港駅まで行くと言う。20分余りの短い時間であったが、楽しく過ごせた。列車の乗り心地もよく、タクシーを使わなかった事は正解であった。 PM3:30、空港駅(Newark Liberty International Airport Train Station)に到着。雨になっていた。ツアーの案内書には、此処から更にエア・トレイン(Air Train)に乗り換えるように書いてあった。此処からの切符は、5.50ドル也。乗り換えてから分かったのだが、このトレインは空港内を走るものであった。 PM3:50、指定されたP4駅に降りて10分ほど待っていると、ホテルから迎えのシャトルバスが来た。周りの雰囲気は成田空港に似ていて田舎じみている。 PM4:00、ヒルトン・ニューアーク・エアポート(Hilton Newark Airport)にチェックイン。久しぶりのホテルだ。早速シャワーを浴びてコーヒーで一服した後、日記を書く。
PM7:00、シェフお勧めの夕食。マッシュルーム・スープとライスの上に魚や野菜が載ったボリューム満点の一皿。頑張って食べたが最後の一口が入らない。味が濃いめで、値段の割に不満足。5点満点の4点と言うところ。税、チップ込みで43ドル。 PM10:00、部屋に戻ってテレビを見ている内にウトウトしている所へ、相部屋の青年が入ってきた。青年は「マンハッタンからバスで来たのだが、3マイル先まで行ってしまい、大きなリュックを背負って歩いてきた」と言う。とんでもないご苦労であった。電話でのやりとりに問題があったようだ。
青年はジョナサン・リンダマン(Jonathon Lindeman)と言い、オーストラリアのシドニーから来た23歳のエックス線技師。言葉に問題がなくとも、旅にトラブルは付き物だ。 PM11:00、就寝。 |